i —新聞記者ドキュメント

森達也監督の映画なので、なかなか時間が作れなかったがなんとか鑑賞。

監督の他の作品、例えば「FAKE」は、ドキュメンタリーでありながら、はたして観ているものをどうとらえたらいいのか、視聴者を混乱させる仕掛けの多い作品だった。それに比べると本作はだいぶストレートだ、というのが見始めたときの印象。だって、「A」「A2」や「FAKE」って、同じ密着ドキュメントだけど、これらの作品では、森監督は密着相手と決して同じ立場に立っている訳じゃないじゃない。ところが、「i」は違う。同じ立場じゃない。だから、構成としては普通だよね

と、思っていたんだが、最後の最後でくつがえされた。それは「i」というタイトルの意味が分かる瞬間でもあるんだけど、一つの映像が挿入されているの。それは、丸坊主の後ろ姿のアップから、だんだんカメラが引いてくると、周りの群集が丸坊主の人をあさけっているのが分かってくる。そこにナレーションが入る。それは、パリ解放の後で民衆たちが戦時中ナチ相手に娼婦をしていた女性を丸刈りにして、晒し者にした様子だった。「え?最後にこれ?」と思ったね。だって、安部首相や 菅 さんもナチも同じ権力側とすると、それに抵抗する人達=主人公の望月さんの周りにいる人達という構図になっている訳じゃない。それを無条件礼賛かと思いきや、いきなりひっくり返してみせるのだ。そして「i」の意味が語られるが、i(アイ)とは、1人称単数のiだ。つまりこれは、個人、しかも自分自身についての話なのだ。決して主人公は民衆ではない。どんな立場であろうと、民衆に対する個人の映画なのだ。実は、1人称というのは、森監督自身のことも言っているのだ。ひとり戦う望月さんの姿を見て、自分自身はどう行動するのか。そんな問い掛けの映画だと思った。映画の最後で、街頭演説をする菅さんとそれをじっと見つめる望月さんの脇で、森監督がささやかな抵抗を警官に試みるシーンがある。それがほんとにどうでもいいようなもので、「ちょっと横断歩道を渡らせてくれ」「だめです」みたいなやりとり。ほんとどうでもいい。最初はなんでこんなシーン入れるのかと思った。でも、これこそが森監督が自分、「アイ」の行動として見せたかったことなんだよね。やっぱり森さんはあなどれない人だと思った。それを思ったのは、すっかりリベラルっぽくなった籠池さんのインタビュー映像に、さらっと森友学園の生徒のシーンを挿入しちゃう。こういうとこ、ほんといやらしい(褒めてます)。

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