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居眠りをする夢とは

居眠り運転をする夢を見た。すごく怖かった。なんせ、もうこれ無理だろという状態で運転していて、何度も意識が途切れてんの。

…ということを後から思い返して、ふと疑問に思うことが。
はたして、居眠りする夢を見ている時の視点はどこにあるのか?
夢といえば、通常はずっと主観だろう。それ以外の夢って見たことないな。なんせ視点が自分の外にある訳だから、「あ、これおかしい、夢じゃない?」とすぐ気付かれてしまうと思うんですよ。ところが、自分が夢の中で意識を失った場合、気付くまでの時間は(夢でも見ていなければ)ゼロであるはずですよね。もし、数秒経過していたらおかしい訳で。ところが、先の私の夢ではその途切れが数秒間と知覚できた気がするんだよね。とすると、やっぱり第三者視点なの?ということになり…変だ。

GUNDAM SONG COVERS2/森口博子

はるか昔、バラドルで売れていた彼女のファンだったことがある。

今の私は、誰かを丸ごと好きになることはほぼないので、ドルヲタになる資格が一番ないような人間だが、それはまあ若気の至りというやつで、ファンクラブというものにも入っていた(会員番号が10代だった)。当然その頃からキャラだけでなく歌もうまいことも知っていたので、ライブなんかにも行っていた。その後、紅白は見てたが徐々に若気が去るとともに徐々に遠ざかっていた。

久々の再会は水樹ファンに連れられて行ったKINGスーパーライブというアニソンの祭典のようなもので。言わば昔の同志が、今だに若い人たちに混じってかんばっている姿を見せられ、「あーおれもがんばらなきゃ」と思った。その時もそれでおしまい。

2度めの再会は、たまたま、別の目的で読んでたアメブロに森口さんの記事がひっかかってきて、「あーGUNDAMソングのカバーの、え、第二弾なの?」というニュース。投票してるあたりからウォッチはしていたが、積極的に参加するでもなく。そもそも第1弾の頃はスルーしてたという訳で。そしてついにリリースという段になって、急遽発売記念配信があるというので、なにげなく参加してみた…そしたらその配信で流れた、アルバム各曲のダイジェストMVが凄い訳です。しかも私の好きな∀ガンダムの曲が2曲も!となり、急遽COVERS1と合わせて購入。

…これは凄いですね。歌唱力。自分が離れている間にびっくりするほど進化を遂げてました。特に、「月の繭」では思わず感動して泣きそうに。というかほぼ泣いてました。歌を聴いて泣くなんて人生初めての体験です。勿論奥井亜紀バージョンの原曲も好きなんですよ。日本語版が出る前のGabriela Robin(菅野よう子)の「MOON」から好きですから。しかし、それをとんでもない超えかたをしてきた。びっくりしたのは、サビの「あおに~」のところ。MOONも奥井版もここはコーラスなのに、ソロのコブシです(奄美風らしい)。

それ以外にも、過去との対決というのもあって、「銀色ドレス」です。昔ファンでしたので、原曲は何度も聴きましたとも。若さが武器な原曲に対し、表現力で勝負してきました。それでいて、キーもほとんど昔のままを維持。これはすごいことです。

昔の森口さんは、なんていうか、私からすると、聖子ちゃんの影がそうしても見え隠れしてました。でも今は、完全に脱却どころか、このアルバムでも先ほどのコブシ以外にも、難しい曲を歌いこなしたり、方々にテクニックを見せてくれてとても楽しい。1作めは去年のレコ大の企画賞を受賞したそうですが、なんの、今作はそれを上回ってると思います。

で、先日、アルバム購入者向けのライブがあって、生歌も凄かった。コロナで生ライブ行けないのは残念だけど、行けるようになったらぜひ行きたいと思う。最近は森口さんがいろんな歌を歌う「Anison Days」という番組をチェックしているけど、先日は「STEINS;GATE」の「HACKING TO THE GATE」を歌っていて、これも原曲とは違うよさを出していた。この曲について「歌詞がストーリーに沿っていて云々」というわかってるコメントをしてそれもまたうれしい訳ですが。こういうカバーは楽しいので今度アルバム出す時はガンダム以外もやってください。

さよならテレビ

東海テレビの平日夕方の報道番組「ONE」を同局スタッフが裏側から描くドキュメンタリー仕立ての映画。「さよならテレビ」なんて挑発的なタイトルをつけられては、やはり観に行きたくなってしまうというもの。私と同じことを考えた人がいたのか、ポレポレ東中野の20時の回は(鑑賞料金1000円の日だったとはいえ)130人の超満席状態で、ざぶとんやパイプ椅子が登場する事態に。

で、映画の冒頭は、その裏側から描く目的がふわっとしているので、撮られる側だけでなく観ているこちらもなんとなくいらいらする。そんな中、監督は3人のスタッフに密着していくことにする。自分に自信がなく、しゃべる時間もきっちり決めないと気がすまない福島アナウンサー、自称、「ぜひネタ(スポンサーなどからぜひにと言われて放送するネタ)」が得意というノンポリっぽい澤村、派遣社員で要領の悪そうなドルオタの渡邊君。それぞれが、追っていくうちにキャラクターのいい味を出していく。渡邊君は笑わせキャラをずっと出しているのだが、他の二人は自分の今のポジションに悩み、抜けだそうとあがく。その姿を追いつつ、監督は報道の抱える問題を暴こうとする。働き方改革で残業カットと視聴率向上で板挟みの管理職、報道は権力のチェックを柱に挙げつつ、やってることは食レポだったり、どうでもいいネタだったり、結局日和ったり..。それにどこにでもある派遣社員の問題とか。

で(そろそろネタバレです)、ドキュメンタリーなのにキャラが立っていて見やすいけど(立たせ方がいいのか)、なんか問題はとっちらかっているなあと思っていると、最後に澤村さんが、カメラ目線で、「この映画何がしたいの?終わりはこれでいいの?」と問いかけだす訳。すると、突然カットバックになって監督が演者に演出をつけている、というかキャラ付けや編集してるといったことを見せていく訳。ええええー?と驚くよね。じゃあ、今までのはどこまでが本当でどこまでがフェイクなの?これはいわゆるやらせなの?途中で放送事故とかあったけどあれもフェイクなの?と一気にこっち、疑心暗鬼になる。で、ここまできて、はたと「あ、これが監督の意図か」と気付く。まあ、そういう映画です。

新作歌舞伎「風の谷のナウシカ」

昼の部夜の部の2部構成だが、仕事の都合で夜の部のみ鑑賞。

この歌舞伎の観客は、「歌舞伎(ないし役者)」を見に来た」「ナウシカを見に来た」に分かれると思う。もちろん歌舞伎なんて見たこともない私は後者な訳だが、客は女性客が多く、見たところ圧倒的に前者が多そうである。そんな人たちは、「ナウシカってどんな話?」とか、「話についていけるかしら?」とか、「ナウシカってあれでしょ、ナウシカが大カイショーを止めて世界を救う話でしょ(それは映画の話で今回は原作漫画ベース)」みたいな不安を抱くんだろうが。こっちはこっちで、「歌舞伎が分からないのについていけるか」だの、「かなり前(2列目!)の席なので、積極的に参加を求められたらどうしよう?いよっ千両役者!〇〇屋!とか(完全に知識がない中想像で言ってます)」だの、「そもそもあの話を歌舞伎でどうやって表現するのか?コルベットの空中戦は?巨神兵は?」だの、色々と不安があったわけで。

鑑賞してみて、「今日は大事なことを学んだ」。それは、「見立て」だ。映画「ダンケルク」の町山さんの解説で、ドイツ軍の戦闘機メッサーシュミットがたった3機しかない(本当はたくさんいるはず)のは、「見立て」だと。クリストファー・ノーランがCG嫌いだったからなのでが、たまたま3機あったメッサーシュミットを「大勢の敵」に見立ててくれと。この「見立て」は例えば特撮や舞台、落語などでも見受けられるが、(見たことなかったが)歌舞伎では常套手段であろう。ダンケルクの予備知識があったから「あーここはそういう『見立て』なんだ」と納得して観れたのは大きい。チャルカ(土鬼の僧)が、ふつーに仏教のお坊さん姿で登場した時には、少しだけ「うっこれは…」と思ったが、その後はわりと大丈夫だった。

とはいえ、歌舞伎の表現で制約がどうしても出てしまうところはある。私の大好きなシーンで、クシャナが自分の軍を救うためにカポの自国の基地を急襲したが失敗し、そこへ蟲の大群が…というのがある。そのシーンでは思わず泣いてしまったが、戦闘機コルベットをぶち当てて奪うアクション的見せどころをどうするのかと思ったが、やはりそれは限界があり演出を変えたりしている。そういえば、主演のナウシカ役の  尾上菊之助 が私が見た回の数日前に負傷したというニュースがあり、上演前にも、「そのせいで若干演出に変更がある」というアナウンスがあった。そういった影響もあるのだろう。おおむねはそれで私的にはOKであった。アクション以外にも、対話劇など(ヒドラの誘惑、ナムリス、シュワの墓所など)ナウシカには楽しみが多々ある。このあたりは歌舞伎には合っているのかも。

そんな私も最後の「見立て」にはのけぞった。なにぶん 歌舞伎素養がないせいだが、巨人であるはずの巨神兵とシュワの墓所の主が擬人化?(普通の人間サイズの人間で)して、例の長い髪の毛をふりまわすやつで戦う(踊る?)のだ。そうか。これが歌舞伎的オトシマエのつけ方か。

全体としては大満足の本作だったが、ちょっと不満な部分もある。それは、ナウシカのキャラクターが、歌舞伎の女形に合わないということだ。ナウシカは時に激しい一面も見せるが、それは男性が女性を演じれば解決するものではない。なぜかというと女形は男性がいかに女性らしさを出して演じるかということに重点を置くからだ。それでも女形女形はしないようにはしているのだが、よく宮崎さんがこれを許可したものだと思った。なぜか、クシャナの方はあまり気にならないというのも不思議なものだ。

あとは細かい点だが、入場して正面の幕が、映画のオープニングのタペストリーを再現していて、これはうれしかった。世界観をこれで説明する、ということらしく、後編のオープニングで使っていた。

ゲーム・オブ・スローンズ

先日、8シーズンにもわたる大作の海外ドラマ、「ゲーム・オブ・スローンズ(以下GOT)」がようやく最終回を迎えた。この作品はダークファンタジーと呼ばれていることもあり、最終回も正直、大団円というものでもない。したがって観る方も大変感慨深くはあるが、それ以上の複雑な感情が渦巻くものとなった。もちろん、終わり方にはまったく異論はない。楽しませてもらったし、特に最終シーズンは、広げた風呂敷のたたみ方や、これまでに総登場した多くのキャラクターの初顔合わせや再会などが見事。これもシーズンを重ねた醍醐味で、続けて鑑賞したファンへのご褒美でもある。

そんなGOTの魅力を語っていきたい。まだネタバレはあまりしないのでご安心を。魅力を3つ挙げるとすれば、「衝撃のストーリー展開」「キャラクターの魅力」「世界観」といったところか。まずストーリー展開だが、この作品、みなさんはどういうモチベーションで見始めただろうか。登場人物たち がバンバン裸になるとか、エロいシーンがあるとか、そんな動機かもしれない(それは私だが)。そういう人達はひょっとしたらがっかりするかも。最初は登場人物の多さに辟易するかもしれない。が、そんな感情もまず第1シーズン第1話のラストでまずふっとぶ。それから、また第1シーズンの中盤でまた衝撃があり、最後でまた別の衝撃が。という風に、筋を追っているだけでも飽きさせない。飽きてる暇がない。GOTでは各シーズンごとに、ラス前1話あたりですごいことが起きている。こっちもこっちで予想は立てるのでが、それをまったく裏切る展開。GOTは原作付きだが、これはドラマの構成の方がうまいせいと思う。

モチロン、話だけでは視聴者はついていかない。そこでキャラクターだ。観ていくうちに、必ず誰かに感情移入できるようなキャラクター。たとエバ、異国に一人嫁に出された少女デナーリス(原作ではデニーと呼ばれている)。あるいは、小人症で父や姉からも嫌われているティリオン。このあたりの人種や性別などの多様性は、時代をリードしている面もあるかもしれない。ティリオンを演じたピーター・ディンクレイジは一気に人気役者に。それに、キャラクターが俳優の人気を押しあげるということもあり、デナーリス役のエミリア・クラークやサンサ役のソフィ・ターナーは最近では映画でも主役級の活躍もしてるしね。

最後の世界観だが、これはもう予算をかけていることがほとんどすべてかな。、スペインやアイスランド、クロアチアなどで雰囲気に合ったロケ地選びも完璧。全部CGではこうはいかない。

で、そろそろネタバレを…個人的には前述のようにデナーリスとティリオン推しであったので、二人が邂逅し同じ道を歩みだした時は、「最終的に彼らが玉座を手にすればいいなあ(GOTはまさに玉座をめぐるゲームである)」となんとなく思っていた。で迎えた最終シーズン。はじめに、ほぼ予定されていたナイトキングとアンデッド達との戦いでまずクライマックス。ここは、人間ならざるものが相手ということで、いわざゾンビ相手のバイオハザードみたいなものだから、勝った時には爽快感も得られるもの。しかし、その次に待っているのは、サーセイ率いる王都との戦い。この二段構えにしたのは実にうまい。ここで得られる勝利は、アンデッドとの戦いのように爽快か?と視聴者にふりかえさせる。不吉感を盛り上げておいて、(この時のデナーリスの疲れた表情が非常に印象的)、第5話でのカタストロフィ。観ているこちらとしては、「やっちまった…」という…そう、確かに予兆がなかった訳ではない。デナーリスの残虐性は前のシーズンでもちらちら見え隠れしていた。それを我々はデニー推しなので、ティリオンのように見て見ぬふりをした。あるいはティリオンがおさえられると思った。そんな甘い期待を、製作者達は容赦なく打ち砕く。王都の完全な破壊と大虐殺で。こちらにはもう苦い思いのみが残り、この後ジョン・スノウがどんな行動をとるかも、もう王手詰みのような状況である。ただ、最後に誰が玉座につくかは少々意外ではあった。が、納得できる。

あと、私が密かに応援していたのが、シオン・グレイジョイである。彼はちょっと小心者の、ごく普通の人間である。彼はその小心さゆえに一度罪を犯し、そこからも小心さゆえになかなか立ち直る、あるいは罪を償うチャンスをもらえなかった。それが最終シーズンでようやくその時が来た。彼はようやく戦って償い、赦された。ベタではあるが、感動してしまった。このシーンはよかったと思う。

そんな訳で、しばらくは、GOTロスである。

ゴジラ キング・オブ・ モンスターズ

一言で言うと、予告編の期待を裏切らない映画であった。そこをはるかに超えてきたかという微妙だが、怪獣映画としては大満足。ドラマがとかこれ以上何を求めるのという感じ。そりゃあ細かいとこで色々ありますがね。まずは怪獣の迫力、美しさを堪能してください。私なんか怪獣の登場のたびにうるうるしてしまった。(逆に、○○のシーンでは別に…な感じ)

それとうれしいのは、怪獣世代へのオマージュというか気遣い満点なところ。伊福部昭の音楽もそうだし、これでもかという小ネタの数々。渡辺謙さんに「ゴッズィーラ」ではなく「ゴジラ」と発音させてるとことか。なので、私のような世代の人にとっては間違いない映画。

では、ここからネタバレありで。特によかったのは、「オキシジェンデストロイヤー」の登場。しかし、それは使われるのだが、キングギドラは外宇宙出自だから効かず、ゴジラだかがやられる。そこで、我等が芹沢博士の登場。自らの命をなげうって、ゴジラ復活に力を貸す。これが、1954年のゴジラとはひねってあって、感心した。上でも言ったように怪獣についてはほぼ文句ない。それは、ゴジラの中でどれが一番いいかと聞かれれば54年の初代と答える。こりゃ仕方ない。ギャレゴジもシンゴジラもそうだが、最近のは目付きが悪くて。キングギドラについては、もう少し宇宙っぽさがあってもよかったと思うが、3つの首が動いてくれるだけでもう…ラドンの低空飛行もよかった。最後はなんかプテラノドンではなくコウモリっぷりを発揮していたが(Dr.マクガイヤーのニコ生での解説は、怪獣の役割について整理してくれたり必聴の内容だが、中でも秀逸はこのラドンのふるまいに対して、「ごますりクソバード」と名付けたこと)。

あとは気になる点など。怪獣を「タイタン」と名付け神格化し、渡辺謙に「我々こそが彼らのペット」とまで言わせた設定と、タイタンが「ORCA」であっさり操れるというのが、なんかずれている。まあこの辺は、東宝の1965年「怪獣大戦争」から引っ張ってきたからもあるのだろうが。

これ、結末でゴジラは完全いい奴なんだが、これで次作でゴジラとキングコング戦うの?なんか、「マジンガーZ対デビルマン」みたいになるんじゃないの、という気も若干するが、期待しておこう。

空まで踊る/ブレイン・サラッダ・インヴェスティゲーション(景山q一郎)

この2冊は、共通する登場人物によるシリーズ物のミステリとなっている。これまでのシリーズ物ミステリと異なるのは、この2作は人物だけでなく、共通の事件を扱っている点である。しかも、例えば「空まで踊る」だけを読んでも、それはそれで1編のミステリ作品として成立している。しかし、その後で、「ブレイン・サラッダ・インヴェスティゲーション」を読むと、前作では気付かなかった点にスポットが当てられた結果、同じ事件がまったく異なる様相を帯びることになる(ネタバレに気をつけたいので、この段落では書けるのはここまでか)。事実、私はこの2作を読む間に1ヶ月ほどのブランクがあったため、結局、 「ブレイン・サラッダ・インヴェスティゲーション」 の読後に、確認のため 「ブレイン・サラッダ 」 で言及されている箇所をもう一度「空まで踊る」で読み返す、という、都合1冊につき2回ずつ読むはめになった。こんなしかけのミステリー作品は見たことがない。その経験も結末も含め、大満足させてくれる2作品であった。ちなみに、「ブレイン・サラッダ 」→ 「空まで踊る」 の順で読むことはおすすめできない。

さて、以下はネタバレになるので、未読の方はご遠慮いただきたく。別に犯人を明かす訳ではないが、物語の構造や仕掛けに言及するからである。

まず、 「空まで踊る」 はあえて、一般的な本格っぽい皮をかぶっているのに対し、 「ブレイン・サラッダ 」 はのっけから叙述っぽい仕掛けをぷんぷんさせている。まず、章題。これは叙述で有名な(映画化もされた)某作品を読んだことある人ならピンとくる仕掛けになっている。だからこれは作者の「やるよ?やるよ?」というサインにしか見えない。意図的なんだと思う。それから、人称。これは、最初気付かずに読みとばしてしまい、かなり進んでから「あれ?」となって戻って読み返すはめになった。しかし、これも直木賞作家の有名な叙述トリック作品に比べれば、まだ親切な方と言える。

それ以外にも、2作を通してもちゃんと説明していないで、ほのめかししかしていない点がある。あれの犯人と動機のことである。これも1回目ではスルーしてしまったが、2回目で回収。しかも、動機の方は1作目をよく読まないと出てこない。まあ書いてあるからフェアなんだけどね。

この作品は、いろんな作品へのリファレンスというかオマージュがあるということをマクガイヤーゼミで言っていたが(ジョジョの東方とか、埋め立て地=パトレイバーとか)、 他にも「四方田<四方田犬彦」や、「首都警察<ケルベロスサーガ」から?

カメラを止めるな

世間の評判が大変によいので、それに押されて「とりあえず見てみるか」という、消極的な動機で鑑賞。
都内2館しか上映していないのに、連日、どの時間も満席らしい。たまたま、夕方少し早めに新宿K’s cinemaに行けたので、チケット購入。上映1時間ほど前だが、そんなに大きくないのに既に整理番号70番台。本当に人気。
しかし結論としては、見てよかった!し、他の方にも自信を持っておすすめしたい。これは誰かの受け売りだが、「伏線満載の三谷幸喜コメディ好きに特におすすめ、そして三谷作品よりできがいい」。
ここからはネタバレごめん。
この映画、予備知識なしで見ることができたがそれも大きい。もちろん、複数回見ることが前提の作品ではあるのだが、皆が「ネタバレしないように」気を使っているように、やはり初回はなしで見た方がいい。私の予備知識といえば、「30分以上ワンカット撮影の『ゾンビ映画?』」。だから最初はそのワンカットに注目して観る。「ふんふん、ほんとにワンカットなんだ。うまく撮ってるな」なんて感心したり。ただ、そのうちにちょっとずつ違和感を感じるように。それはちょっとした不自然な間だったりするのだが、役者がアマチュアなのか演出がまずいのか、笑いをとりにいってるのかいないのか、微妙な感じなのだ。後になってみると、すべて狙いだったことが分かる。前半部分で、一部の観客に「え、ここでそんなに笑う?」というリアクションがあったのだが、再見の客だったんだな。ようはこれらは全部伏線だった訳である。つまり、ワンカット・ゾンビという作品が終わったあとに、その種明かしが始まるという訳だ。しかも確実に笑える。なんかすべてが奇跡的ともいえる演出。
後半は、前半のワンカットを別の観点(カメラ)から見直している、ように見える。見えるだけで、実際には取り直してるんだろうが、結構再現度が高いので、そうは思わせない。
唯一、不満があるとすれば、ここに親子の相克と和解みないな、若干見飽きたテーマをからませてるとこ。最後はここがメインでちょっと感動したりするのだが、瑕疵といえる瑕疵はそんなとこか。

アイ、トーニャ

「トーニャ・ハーディング」と聞けば、すぐに「ナンシー・ケリガン襲撃事件」という言葉が連想できる、それが我々の世代である。といっても、事件の細かい部分や背景についてそれほど知っている訳ではない、なんだったらこの映画で出てきたように「トーニャが直接、ナンシーをフルボッコにしたとみんなが思っている」、それが我々の世代である。この映画はそんな我々の世代向けに作られた、訳でもないのだろうが、最終日に行ったら観客はそんな世代の人達ばっかりだった。

この作品は主演のマーゴット・ロビーが自らプロデューサーを努めてまで、やりたかった作品だという。作品を作るにあたって、トーニャ側の主要人物に徹底した取材を行った。その結果、ナンシー側の視点からの描写はなく、事件までの経緯はほとんどトーニャ側の観点で描かれる。トーニャ側といっても、トーニャと元夫の発言には食い違いがあるが、それもそのまま描いている。視点は偏ってはいるが、決して客観性を失った訳ではない。事件そのものにしても、「トーニャは100%イノセント」なんて描き方はしていなくて、むしろ「え?その会話をしてる脇にトーニャいたの?じゃあれとあのことは少なくとも知ってたよね」ということを暗示し、客を一方向に流して安心させないようにしている。

が、しかし、この「物語をほりさげる」ことで、スケートシーンの凄さ(これはCGも使っているが、マーゴット自身の演技もかなり入っている)が活きてくる。最初にトリプルアクセルを決めた大会の興奮や、リレハンメルの決められた失敗に向けたどうしようもない緊張感を、観客は共有することができる。今年の映画のあらゆるアクションの中で、随一の出来といっていい。エンドロールでは本人によるトリプルアクセルの映像が出てくる。こちらを出すことで、あらためて本人の凄さを観客は知ることになる。うまい構成だ。

アカデミー助演女優賞を獲得した母役のアリソン・ジャネイの演技が評価されている。彼女の冷血な演技もいいが、マーゴットも負けていない。単純な善玉悪玉でない役、でもどうしようもないホワイトトラッシュの役、といった複雑な演技を完璧にやりきった。彼女が演じたトーニャのキャラは、確かに一部では嫌われそうではあるが、一方で、例えばフィギュアスケートが体現しているような既成概念に対する反逆者でもある。ZZトップの曲にのせて踊りだす彼女を、当時もう少し上の年齢だったら好きになっていたと思う。

デッドプール2

デッドプール2、IMAX2Dで鑑賞。今回もネタバレ満載です。
前作は、メタなセリフとアクションで楽しめたが、今回はメタ台詞もあるにはある。がそっちはむしろ、「アイ、トーニャ」にまかせてもよくて、山盛りに盛り込まれたパロディ、風刺ネタがよかった。今回はタイムマシンがガジェットとして出てくるのだが、最初は制約を設けてあえてやりすぎないようにしている。ヒロインは序盤でいきなり殺されてしまうが、失った家族をとりもどすという敵(ケーブル)のかかえる問題は、そのままデップーの抱える問題にもなる。が、それはタイムマシンで安易な解決にすることなく、あるべき形に落ちついている。(タイムマシンは行きと帰りで1回しか使えないし、クライマックスで使いきってしまいケーブルは家族のもとに戻れなくなる)

と、こんな形で終わったら普通の映画になってしまうので、エンドロールでは、タイムマシンが修理されてしまい、デップーはさっそく恋人を救いに時間をさかのぼってしまう。それだけではなく、過去の「ウルヴァリン」でのしょうもない登場をしたデップー(自分自身)を殺してないことにしたり、「グリーンランタン」の主演をひきうけようとしたライアン・レイノルズ(自分自身!)を殺したりと、1回完結のギャグマンガのような、次でリセットされそうな暴走。これが楽しかった。次作ではどこまでがリセットされるのやら。結局この流れで恋人は生き返りそう?

それにしても、初日に行ったのだが、ウルヴァリンやグリーンランタンのくだりで爆笑が起きていた。なかなか濃い観客揃いなので感心した。