ウォッチメン

今回、HBOドラマ版を鑑賞するにあたり、アランムーアの原作→ザックスナイダーによる映画→HBOドラマの順で鑑賞。原作が一番大変だったよ。ものすごく分厚い上に情報量も多くて。でもやっぱり読んどいてよかった。コンテキストとしてこれはあった方がいい。一方、ザックスナイダーの映画は、確かに、コミックのいろんなシーンを忠実に再現している。のだが、原作の重厚な内容に比べると、なぞってるだけ感が否めず。ラストも変えてるしね。原作者のアランムーアは映画と今回のドラマいんついてはどっちも認めていない立場らしい。しかし、映画はともかく、ドラマについては原作者の意見に関わらず面白い。私はAmazon primeスターチャンネルEXの無料お試し期間中(2週間くらい)で急いで全話観て、ネタバレOK状態となって町山さんの映画ムダ話やマクガイヤーゼミの解説を聞き、その結果、細々としたことが確認したくなり、もう一度観るはめに。でももう一度観てしまうと無料期間が終わってしまうのだが、有料突入は覚悟でもう一度鑑賞。何が言いたいかというと、それだけ面白いってことだ。

このウォッチメンは原作の続編で、現代を舞台にしている。だから原作の頃から30年が経過しており、例えばその時の登場人物であるオジマンディアスやローリーが歳をとって登場。両者とも非常に味のある演技で、この二人がいないとシリーズとしては無味乾燥なものになりかねなかった。が、主人公はその世代でははく、現代の現職・黒人・女性警官。これが今風だね。しかも、実際に1921年に起きたタルサの黒人大虐殺の生き残りの子孫ということになっている。この事件は知らなかったので勉強になったし、米国民にも認知されたのではないか。今年はこの事件を想起させる、警官による黒人の殺人事件が起きていたり、トランプ大統領がタルサで集会を開こうとしたり…このシリーズが放送されたのが2019年のはずなので、まるで今年を予期していたかのような先取り感である。(以降、ネタバレガンガンなのでよろしく)

とはいえ、ドラマの設定は今ではなくパラレルワールドということになっている。つまり、原作がパラレルワールド(例えば、ベトナム戦争に米国は勝利した)を引き継ぎ、現代ではベトナムが51番目の州になっているとか、携帯がなくて未だにポケベルだったりする。そして、覆面の白人至上主義者が跋扈しており、警官もプライバシーを守るため覆面をしている。そんな世界である。こんな設定ややこしくて説明するの大変だと思うのだが、ドラマでは非常にうまく説明していた。

そして、しっかり張られ、回収される伏線。もちろん全部ではない(回収しきれないのもある)が、これも私が2度見たくなった理由で、主人公の夫の名前がカルだったり(スーパーマンの名前「カルエル」のカルだ)、そのカルにローリーがモーションかけていたり(カルの正体は元カレであるDr.マンハッタン)。

シリアスばかりかと思えば適度に笑えるのもいい。3話だったかな?ローリーの登場場面で、おとり操作にひっかかって来る覆面ヒーローがバットマンそっくりとか。

音楽の使い方。80’s大好きなというか世代には、ハワードジョーンズやらWham!の曲がグッっと来るし、使い方にも意味がある。

9話構成だが、一番好きなのは8話。ここでは、主人公とカル=Dr.マンハッタンの出会いから今までが語られるのだが、時間軸をバラバラにした上、なんとタイムパラドックスを二人の愛のクライマックスに持ってくるという。こんなパラドックスの使われ方を私は知らない。すごい。脱帽です。

日本沈没2020

NETFLIXオリジナルのアニメ。我々の世代にとって「日本沈没」といえば、小松左京の小説そして最初の映画化。その世界を期待したが、実際にはまったく違うものを見せられた。その違いをポジティブにとらえるかどうかが問題なのよね。それをこれから語るんですが、ネタバレしまくります。

実は、第2話を見たあたりまでの印象は最悪。なにこれ、家族サバイバルもの見せられるの?しかもさ、あれだけの地震があったのに家族があっけなく再会するし。母親にいたっては、飛行機が川に不時着したのにあっさり生還。あの、飛ぶ前に見せられるすべり台みたいなやつが活躍っするのはじめて見たわ。その後も、なんやかんや地震あるのにあまり沈まないし、道は自動車で通れるし、その後も死人出ないし。おまけに、なんやかんや電気は使えるし、携帯のバッテリーも減らないし。あとあと、絵が動かない!NETFLIXって予算あるんじゃないの?深夜アニメ並みに動かないんだけど…

といった印象が、3話、4話と進むにつれ、徐々に人が死にはじめる。父親、そして主人公の友人。しかも彼らの死はあまりに突然だし、沈没とも直接関係ない。その後も加速度的に人はやはり死んでいく。だから安心というと不謹慎だが、ちゃんと描いているということ。

そして、最初は元々のテーマと違うじゃんと思ったのだが、原作のテーマを実は今風に焼き直しただけなのだ。沈没というシークエンスの中で社会がどのように動くかというシミュレーションをちゃんとやっている。途中で出てくる宗教団体もそうだし、実は最初家族といってたものが、多人種、ダイバーシティのかたまりみたいで、実は疑似家族というか、今どきの日本コミュニティの縮図であった。最後の方はそれで、沈没後日本人がどうするかという問いにちゃんと答えを出している。(私が見るきっかけになったマクガイヤーゼミのDr.マクガイヤーは、「原作、映画に対するアンサーソング」と評していて、言いえて妙である。最後の方はまあ御都合主義的な展開もあるが、感動した。途中で見るのやめなくてよかった。

この世界の(さらにいくつもの)片隅に

「この世界の片隅に」に未公開シーンを加えた本作、ようやく劇場で鑑賞。私の観たテアトル新宿は再上映が最終日で、まさにギリギリ。しかしやはり観てよかった。

予想通り、「この世界の片隅に」ではろくに語られなかった白木リンさんのエピソードがたっぷり盛りこまれているが、実はそれだけではなく、「この世界の片隅に」ではアイテムだけ登場して、説明のなかっったシーンが復活することで、観客がずっと理解しやすいものになっている。例えば、すずが妊娠を疑って病院に行くシーン、元のバージョンではいきなり病院の後夕方になって食事が減っていたが、本作では、すずにリンへの語りとして、検査が陰性だったことを語らせている。なんて親切。原作に登場した、ノートの切れ端も説明されているし、終盤、すずが周作を見送る場面で唐突に口紅を塗っているが、実は、それは遊廓の病気の娘から託されたもので…ということがしっかり説明。最初の水原に鉛筆もらうシーンも、あれ、その前に水原がすずの鉛筆を落としてしまうシーン、あったっけ?たぶんあれも追加されているっぽい。というかそっちが当たり前で、どうしてもそうすると最初のバージョンは説明不足に思えてしまうし、逆に本作は親切にしすぎなんじゃない?と思ったり。

ただ、他によかったのは、2回目の鑑賞ということで、余裕が出てきたのか笑えるシーンは笑えるし(砂糖水とか、憲兵が来た時に周囲が笑いをこらえているのが、2回めだからわかるとか。あと2回目だと、来るべきシーンを考慮すると、やはり晴美ちゃんを見るのがもう切なくて…

誰がハマーショルドを殺したか

ハマーショルドとは、第2代国連事務総長のこと。アフリカなどの植民地の独立を支援し、大国からは恨みを買っていた彼は、1961年コンゴ動乱の調停のため向かっていた飛行機が墜落し死亡した。本作はその死の真相を追いかけるドキュメンタリー。

…って、これだけですごい陰謀の匂いがするし、逆に言うと、この映画だけで、そんな真相やら決定的証拠がポロポロ出てくるとは思わないじゃない?でも、以外と出てくるんだこれが。まず、誰が殺したかということについては、裏社会を探っていくと、「あー殺したのあいつだよ」とあっさり判明。まじかよ、なんでこんなあっさりしゃべっちゃうの?どころがこの件はこれだけでは済まなかった。裏に組織がいるらしい。それは、植民地支配を続け、白人市場主義を守るための闇の組織、「SAIMR(サイマール)」。南アメリカ海事研究所らしいが、この組織が暗殺の黒幕どころか、他にもエイズを意図的に蔓延させる工作をしていたとか、とんでもないことがどんどん明るみになっていく。これも不思議で、その組織の元メンバーという奴がどんどん出てきては、いともあっさりとしゃべっちゃう。いやまあ地道な取材の結果を淡々と見せてるので、あっさりに見えるだけなのだろうが。こんなにしゃべったら命狙われたりしないの?とか思っちゃう。

どこか淡々としているのは、このドキュメンタリーが過剰な演出してないせいだろう。唯一気になっていたのは、監督?語り部が、なぜか秘書を2人雇っていて、一人にタイプさせてたと思ったら次の瞬間別の秘書に語っていて、これはすごく深い意味が?と思ったら、劇中で「特に意味はない」と。なんじゃそりゃ。

ストーリーオブマイライフ〜私の若草物語

この邦題よくないよ。別に若草物語って言わなきゃ、自分みたいに若草物語読んだこともないし、興味もなかった人を呼べると思うんだが。え?そんなの少数派?そうなのかなあ。少なくとも自分はこのタイトルで行く気なくしていて、おすすめされたので行ってみたらすごい拾いものだった。何がそんなによかったかというと…(以下ネタバレ?)

メタフィクションなとこですかね。本作は若草物語(原題Little women)と、その作者であるオルコット自身を重ねた物語になっており、どこまでがフィクションで、どこまでが作者の話か、混沌としているところが面白い。一応、Dr.マクガイヤーの分析によると、暖色系のシーンは理想=フィクションの世界、寒色系のシーンは現実=作者の世界のように分けられる。もしくは過去と現在という解釈もできる。でもたぶん実際には作者は誰かと結婚したりしないし、プロポーズもされたししてないんだろう(この2つのシーン、演技がわざとらしくない?舞台調というか。わざとやってるんだと思う。

主役の子もがんばっているが、フローレンスピュー、ミッドサマーともまた違う顔を見せてくれて、やるやん、と思った。

ドラえもん のび太の新恐竜

「新恐竜」には2つの意味が込められている(はず)だ。1つは、登場するのが未発見の種という意味での「新」。もう1つは、昔の「のび太の恐竜」に対してリブートであるという意味での「新」。この映画、ドラえもん生誕50周年という看板を背負ってるんだよなあ。いいのかなあそれで。

子供と観てきた感想。一番は、「ミュウいる?」今回登場するのは双子の恐竜、ミュウとキュウ。ミュウはすぐ飛べるようになったり(翼が生えているのだ)、すぐなんでもできるようになるのに、キュウは飛ぶこともできない、世話の焼ける子。とうぜん、自分の重ねるのび太の寵愛を受けることになる。ミュウの方はすっかりおいてけぼりなので、ちょっとしずかちゃんにかまってもらったりするぐらい。ラストでものび太にさよならも言ってもらえない。かわいそう!もちろん、できないキュウとの対比で出してるんだけど、そんな必然性だけで魂がこもってないのがなんとも痛々しく…だったら出さなくてもよかったんじゃない?

次に気になったのは、「仲間の心配もせずにイチャイチャしてんじゃねーよ」。のび太がいなくなって、しずかちゃんが「のび太さん…」てなってますが、一方その頃ジャイアンとスネ夫も行方不明ですが?それをしずかちゃんはおろかドラえもんすら話題にしない。ひどくない?あげく、のび太が見つかった時に抱き付いたり、やたら接近させてるけど、これいる?

あとは(以下ネタバレ)…最後、力技で一部の恐竜たちを絶滅から救ったのび太たち。それはまあギリギリ許すとして、それにしては別れのところはあっさり。歴史に影響しないってことは、彼らも結局絶滅するんだよね。そのことに触れないのはいかがなものか。そこにこそドラマがあるのではないのか。子供に背負わせるのは重すぎとでも思った?

あとは、最後キュウが飛べるようになることと、のび太も逆上がりできるようになることを対比させてるんだけど、ここの展開が先読めすぎてなんか陳腐。たとえばさ、普通と違うがゆえにいじめられる者が、実はミュータントで…という展開の仕方もできたし、その方が時流には合ってるんじゃない?何もできないのび太が実は…と創造したらちょっとゾクっと来るよね。

そんな訳で個人的には不満タラタラな私ですが、そんな「新恐竜」でも、予告でかかった「STAND BY MEドラえもん2」に比べりゃずっとましか…なにあれ?誰向けの映画?柳下毅一郎氏が指摘してるように、なんかあまりにも自己中心的すぎるんじゃないだろうか?これは見に行かないだろうなあ確実に

透明人間の気持ちを考えろ!(透明人間)

タイトルですべて説明してますが、最近公開された「透明人間」の感想です。私にとって透明人間映画といえば、「インビジブル」。これは透明人間観点から撮られたもので、バーホーベンが撮ったというのもあるけど、非常に印象に残っている。一方本作品は、徹頭徹尾、狙われる人間目線で話が進む。つまり、透明人間がいるのかいないのか、どこにいるのか、正体は誰なのかも含め、謎のまま進行。

ところで、透明人間といってもざっくりいって、2つパターンがあると思う。1つめは、実体も含め完全になくなってしまうパターン。こっちの方は幽霊のごとく壁もすり抜けられる。しかしこっちはやや現実離れしてしまうのか、最近はもう一つのパターンが多いように思う。つまり、人間としての実体はあるが、単に見えなくなっているだけというもの。本作ではもう少し科学的に、光学迷彩スーツを使って透明化することになっている。一見本作は科学的になっているように見えて、透明人間視点でみると、実に不自然な点が多くなっているのだ。(この後ネタバレあり)

例えば、この透明人間は実に執念深く、主人公が収監される事態になっても(透明人間の罠で)、檻の中までついていく。つまり鍵をかけられた中に一緒にいる訳だ。そこまでする?という気持ちの問題はさておくとしても、閉じこめられちゃってどうすんの?と思う訳である。いつ出されるか分かんないんだよ?睡眠や排泄はどうするのか。見張っている間は我慢できるのか。このように透明人間の立場になってみると透明人間は超人化してしまうことになってしまうのだ。主人公が収監されるきっかけとなった、妹をナイフで刺して主人公に握らせるというのもそう。刺してから目にも止まらぬ速させ主人公に握らせているのも人間離れしているが、それ以前に、刺そうと思って握っているナイフは(光学迷彩スーツでは)透明にはできないはず。すると空中に浮いているナイフを誰から目撃してしまう危険がある。

そもそも透明人間の挙動が首尾一貫してない。弟を通して遺産をあげるといっておいてとりあげる。最初からあげなきゃいいのに!また主人公の子供がほしいといって妊娠させておきながら、殺人の濡れ衣を着せて牢屋に放り込むってなんだよ。めちゃ胎教に悪いじゃん!とか。あと透明人間、銃で撃たれまくってるのになかなか死なないってのもどうなのか。光学迷彩ってのと防弾は違うと思うが。

透明人間だけでなく、主人公にも超人気質が。それはラストシーン、主人公の身代わりがえらく速すぎるということ。さすがにこの辺は核心つきすぎてるので、気になる人は鑑賞して確認していただきたい。

それ以外の点では、主人公の挙動が間抜けすぎるのも…冒頭、夫のものから逃げだすのだが、何かにつまずいて音をたてたり、挙句の果てに車の防犯アラームをけたたましく…わざとやってるとしか思えない。というか、あそこで夫が気付いて追いかけてくれないと話が進まないからという、完全ご都合だよね。

この世界の片隅に

もう映画公開からも3年ほど経っている訳で…なんでこのタイミングか?といえば、今一つ食指が動かなかったのと、原作と映画どっちから手をつけるか悩んでいたという経緯があって。

結果、ようやく原作を読み、読みはじめたら一気に読んでしまった。面白かったので続いて撮りためていた映画を鑑賞。内容が原作を基本踏襲している映画で、原作を超える面白い作品にはなかなか出会えないが、これがその稀有な例外だった。内容を知っていてなお楽しめる。むしろ知っている側としては、「あ、それだめ!(志村後ろ!)」的な緊張感を生み、プラスに働く。これも事前情報遮断派としては新しい発見。そもそもこの作品の構造が、主演の能年ちゃん(のん)が主演していた「あまちゃん」と同じ構造を持っていて、過去から歴史上のある重大な1点に向けて物語が進んでいく。観客はその特異点において登場人物がどうなるのか気になりつつ、鑑賞する…あまちゃんにおいてはそれは3.11の東日本大震災だが、この作品では舞台が呉、時代が第二次大戦中ということもあり、とうぜん昭和20年8月6日ということになる。(書いていて気付いたのだが、構造的には「100日後に死ぬワニ」もそうか!?)

観客(読者)が、登場人物には知りえない情報を読みとって鑑賞するということを強いられる構造は、その特異点に留まらない。とにかくほとんど、情報をあまり与えてくれないのだ。寡黙すぎ。原作だけでなく映画もそうなのだ。だから、少なくとも原作を先に読んでおくことを私が珍しく推奨するのは、先に挙げた理由だけではなくそのためである。たいがいの情報は原作の情報や、現在に生きる我々が持ちえる歴史的知識で補完できたりするのだが、原作読んでないとこりゃわからんというのは、遊廓に住む「リンさん」とのくだりである。(以下ネタバレ)

リンさんは、原作では実は主人公の夫が昔愛していたひとであることが明かされる(それも原作では非常にさりげなく示されるので、思わす見逃してしまういそうなほど)。が、映画ではそのくだりは割愛されている。リンさんは登場するし、過去の関わりを示すアイテム(千切れたスケッチブックの表紙)も出ていたりするのだが、さすがにそれだけでは映画所見の人は分からないだろう。どうやら後で得た情報から推測するに、このくだりは編集でカットされていて、後にこのくだりが復活したのが、「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」バージョンらしい。私は現時点では未見であるが、ぜひ確認してみたいものである。

映画の方だが、原作にない魅力があるのは、絵の力ではないかと思う。主人公すずが土手の途中で振り返る何気ないシーンだけで、その魅力が分かる。もっとも映画としてのオリジナルの効果を発揮するのは戦争(爆撃など)のシーンである。1点だけ私が「オヤ」と思ったのは、それだけ映画オリジナルのことをしておきながら、原作の「空いっぱいに爆撃機」が広がるシーンは、原作の構図をそのまま使っていたところ。あそこは確かに原作でも白眉のシーンだが、それは漫画だからの表現であって、ここは映画なりの表現で挑戦してほしかった。

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒

前作「スーサイド・スクワッド」で一人勝ちの人気となったハーレイ・クインのその後の話。なんか最近こういう映画多いよね。男に食い物にされた女の子が結束して男どもをぶちのめす映画。「ハスラーズ」もそうだし、「キャプテン・マーベル」もそうだったなあ。見てないけど、チャリエンもそうじゃないかな。このブームを後世の人は、「ブラックスプロイテーション映画ならぬ、ガールズプロイテーション映画」とでも(揶揄気味に)言うのかね。でも、そんなこといいじゃないかね。痛快なら。この映画の魅力を言葉にするのは難しいが、一言で言うならそんな感じだよ。あとすごく、色々語りたくなる映画。でも言葉にしずらい。なんだそりゃ。

この映画ではハーレイはジョーカーと別れて(なりゆき的に)様々な立場の女性とチームアップする。刑事、歌手、スリ、殺し屋…原題は「Birds of prey(猛禽)」っていうんだけど、DCコミックスで元々そういうシリーズがあんのね。で、歌手(ブラックキャナリー)や殺し屋(ハントレス)はそのメンバーな訳。ハーレイは違うみたいなんだけどね。だからこのチームは映画オリジナルなのかな。

で、ハーレイをメインにした新たなる物語を紡ぐとなると、ハーレイのオリジンみないなのも入れなきゃならなくなる。ジョーカーみたいにね。でも、その辺(出生から精神科医時代からジョーカーとの出会いから別れまで)は、ハーレイの独白ナレーションとアニメであっさり済ませた。この辺は長々なんなくて正解。その後も、観る前に心配してたようなところはだいたい、杞憂だった。序盤のポンポンポンとアクション飛ばして、「あれ、つながんない?」と観客が思った瞬間に逆再生が始まるとか、ラストシーンで突然画面が暗くなった時に、「う、これってザックの呪い?(死んでない)」と一瞬不安になったものの、これも杞憂。

ハーレイのキャラ付けは、「いい子になりすぎず、でも時々お茶目な魅力」というラインを守っている。これもいい。前半の警察署突入シーンは、ガンガン撃ちまくってるのが、なんていうの?突入の時に煙が出るやつで、「警察殺してませんよ」だし、(別のとこでは悪いやつはやっちゃったりするけど)。あと、結局カネのために仲間裏切っちゃうとか。絶妙のバランス。

あとは細かいところもいろいろ。マーゴット・ロビーがプロデューサーについてるせいかな?ハーレイがいつのまにかローラースケート乗り回してる(「アイ、トーニャのおかげ?」のとか、あとはバットだね。バットが出てきた時は「うおーっ」ってなったね。

ハーレイ自身の魅力では、前作と甲乙つけがたいところはある(初登場のインパクト大きかったし)。が、仲間もいいよ。ハントレス、ブラックキャナリーにモントーヤ、キャス。このチームでもう一作見たい。でもないかな?どうかな?

ハスラーズ

以前この映画の話を聞いた時は、そこまで強烈に観たいとは思わなかったかな。なんでかな。きっとオーシャンズ8みたいな映画と思ったのかな。ちなみに私はオーシャンズ8未見。ストリップクラブが舞台だけど、なんかショーガールみたいでそっちはあまり期待できないみたいな。でも、Dr.マクガイヤーが「今年一番の映画」とすごく推してくるので、じゃ、ちょっと観とこうかと。こののところのコロナ騒ぎで、たいがいのイベント自粛だし、やってる映画くらいしか娯楽がないんだな。同様のことをみんな思ったのか、それとも上映館や上映時間が限られてるからなのか、私の観た回(TOHOシネマズシャンテ、18:15〜)はほぼ満席に近かった。

で、感想。最初からハードル下がっていると大抵満足できるというのもあるが、確かに面白かった。し、もう一度観たいと思った。これがミッドサマーとの違いなんだなあ。(この辺からネタバレかも)まず、ストリップというか、J.LOことジェニファーロペスのポールダンスがすごい。確かにカリスマ感にあふれてる。ストリップでも脱いでるシーン自体はそんなエロくない。敢えてそのように撮っている。で、主人公であるコンスタンス・ウーとJ.LOその他がチームを組んで、リーマンショックの元凶である金持ちから金をせしめるというストーリー。チームだけど基本的にはさきほどの2人のバディムービーというか、ブロマンス?じゃない、シスターフッドっていうの?ほぼ恋愛関係、を描く。途中までは、法じゃない、義は彼女らの方にあるから、彼女らの成功と多幸感をたっぷり描く。ここで我々もしっかり幸せになる。あまりにも頂点にいってしまうので、これは終わリがいずれ来る、というか既に挿入されているカットで結末は見えてるんだけど、でもこの多幸感がいつまでも続けばと思ってしまう。で、あれこれあって二人は別の道を歩む…という話。なんかこれ、金持ち男どもをやっつける話だけど、別に金そのものを否定してるんじゃないんだよね。せしめて金でめちゃ買い物するし、犯罪が発覚した後のインタビューに答えるコンスタンスの着てるものとか家も豪華なまんま。これは意図的にやってる。だから、これは復讐劇じゃないんですよ、ってことだよね。それはそのまま劇中でも言っていることだけど。これは、「友情」の物語なのだと。

あと、深刻になりすぎず、いい間で笑いを入れてくるのもよかった。あまり深刻にやりすぎると「モンスター」になっちゃうもんね。

by morota